
なぜ心がざわつくのか?
サイゼリヤでドリアを単品で頼んだ。
300円。税込みでもこの値段。
物価高のこのご時世、もはや社会福祉に近い。
サイゼリヤ関係者の方々に、感謝の言葉を捧げたい。
という前置きはさておき、
ドリア単品注の話やけど
罪悪感が湧いてくるんやな。
学生時代とかそんなん感じたことなかったんやけど。
まず視線が気になる。
ファミリーはドリンクバーをつけ、
学生はチキンやら、カタツムリやら、ポテトやら、山ほど頼んどる。
ワインまで飲んでいる人もおる。昼間やど。
ワイだけが、
ドリア一皿で人生をやり過ごそうとしている人間や。
ワイだけなんやろうか?
店員さんがドリアを運んでくると、
「これだけ?」という無言の問いを
勝手に受信してしまう。
考えてみればおかしな話や。
300円で食事ができるのは、
企業努力の結晶であり、
資本主義の奇跡や。
せやのに、
人はいつの間にか
「ちゃんとお金を使わないと申し訳ない」
という謎の倫理を内面化している。
これはサイゼリヤの問題やない。
日本人の精神構造の問題や。
安さは「助け」やなく「甘え」
やと刷り込まれている。
慎ましく生きると、なぜか肩身が狭い。
ドリアを食べ終え、
皿に残ったのは米粒数個と、
「今日も社会に貢献できなかったな」という
意味不明な反省。
サイゼリヤは何も悪くない。
悪いのは、
300円の幸福を堂々と受け取れない
ワイのメンタルや。
次は青豆温サラダも頼もう。
そう思いながら、
きっとまたドリア単品を頼む。
これが、
低価格社会に適応しきれない中年の観察記録である。








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